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文責:あずみ

ウィトゲンシュタインの思想というものは有名で、世に賛否両論を引き起こしたのだが、
その論議の中に「心身平行(こころの働きがからだにあらわれる)ということはありえない、というようなものがあった。
それらは同時に現れる2つの独立した現象であり、関連づけるのはあやまちにすぎないということであった。

私自身はウィトゲンシュタインが批判した心身問題に真っ向から取り組んでいる実験心理学を修めようというものであるので、この言説とある種対立するような気分になったのだった。

ウィトゲンシュタインは生理学的心理学の価値を全く認めなかったのではない、というような言及があったが、
心身平行論そのものを否定してしまっている彼が、いったい何をもって生理学的心理学の価値を認めたのか謎である。
臨床的な成果をもってであろうか?だが生理学的な臨床の成功を認めることは、身体が精神に及ぼした影響を認めることになり、それは心身平行論を認めたことにはならないのか。
実験心理学を学ばんとしている私にとっては、なぜウィトゲンシュタインが心身平行論を拒否しなくてはならなかったのかが謎である。

たしかに生理学的心理学は、一個の心理的過程に対応する生理的過程を前提とし、そのようなモデルを提唱してきた。
そして、そのモデルに該当する生理的過程が存在しなかったこともしばしばあった。
また、心的機能をただパラフレーズしただけの仮説もあった。
だが、実際一個のある心的活動の際に一個の生理的な現象が起こることは事実であり、一部ではあるがその逆も成立することが知られている。
これはまさしく心身平行に他ならないではないか、と実験心理学側の人間なら思ってしまうのである。

だが、ウィトゲンシュタインは時計屋の比喩を持ち出してくる。時計屋の時計はみな同じ時間を指しているが、時計どうしに相互作用はない、と。
そう言われてしまえばそれまでのような気もするが、しかしわれわれの’実験心理学’が持ち出した現象は果たして本当に時計屋の時計なのであろうか?
実際に因果関係があったとはなぜ言えないのだろうか?

「科学」の徒はおそらくこう言うだろう。
「実際われわれの言う通りAが起こればBとなる。何なら今からそれを見せてあげてもいい。
だがウィトゲンシュタインの言うことは単なる比喩であって何の証拠もないじゃないか。」
そしてウィトゲンシュタインの後継者たちはおそらく「それが証拠だという根拠は?」というような皮肉を投げ掛けるであろう。
ここで実験心理学とウィトゲンシュタインの言説は互いに互いの糊口をしのぐ手段を罵り合うという悲劇に陥ってしまう。

比喩!証拠!
どちらか一方だけが正しいというわけでもないし、どちらか一方だけが手段として正当だというわけでもないだろう。
口に糊する手段の話に限っていえば、哲学者も心理学者もお互いの仕事道具を奪い捨てようというのは賢明な方略ではない。
だが果たしてそういった論点とは別のところで妥協点を見つけなければいけないほどこの2者は対立しているのであろうか?
実験心理学の分野で主な学派の一つであるゲシュタルト学派は、現象学と深く関連している。
ここでは哲学と心理学は手を取り合いしあわせな結婚をしているではないか。
何も好き好んで対立をつくる必要はないはずだ。
それとも、哲学全般ではなくウィトゲンシュタインの言説のみが心理学と対立しようとしているのだろうか?

やはり心身平行論の否定がどうしても実験心理学者にとって引っ掛からずにはいられない棘となるようである。
つまりここでまた最初に述べた疑問に立ち返ってしまう。
なぜ、心身平行論は否定されねばならなかったのか?

ここで、素朴な疑問を挙げる。
ウィトゲンシュタインはどれほど生理学的心理学を知っていたのであろうか?
また、ウィトゲンシュタインの後継者たちはどれほど生理学的心理学を知っているのであろうか?
これだけ心身問題について論議がなされているのだから、その答えが「ちっとも知りません」では趣味の悪い喜劇になってしまう。
だが笑い事ではない。
特に日本において、心理学全般は未だにFreudの軛から逃れられていないし、そのために生理学的心理学が脚光を浴びる機会は実に少ないのである。
現在日本でウィトゲンシュタインを研究または愛読している人々のなかで、いったい何人が生理学的心理学で何が行われているのを知っているのだろうか?
それとも、こんな危惧は馬鹿馬鹿しいほどみなさんよく勉強していらっしゃるのであろうか?
しかしここはともかく後継者たちのことはいいとしよう。
何より重要なのはウィトゲンシュタイン自身がどれほどのことを知っていたか、また知り得たのかである。
この2つは勿論異なった様相を示す問いである。
だが、手元に充分な資料がない上にウィトゲンシュタインの言説に習えば「知る」という現象に関して得られる内容はごくわずかに限られてしまうのであるから、
「何を知っていたか」という問いを「何を知り得たか」という問いに置き換えて最大値を想像するくらいのことしかできない。
ウィトゲンシュタインの生きていた時代からいって、本能論や基本的な学習理論、精神物理学の一部は知られていても当然である。
だが認知心理学的な研究の成果は彼の死後のものであるし、
アルツハイマー病、パーキンソン病、ハンティントン病などの病因が神経伝達物質が分泌されない異常によるものであるということ、
精神状態が免疫系などに影響を及ぼすという研究は彼の知り得るものではないが、
心身平行論にとって極めて重要な事例である。
実利的な話をすると心身平行論を否定したところで患者を救うことはできないのである。
心身平行論を前提とした上で試みられるいくつかの身体的療法は、無論失敗も数少なくはないけれども、心的機能の回復に幾ばくかの貢献をしているのである。
この事実を前にしていったいウィトゲンシュタインとその後継者たちは何を言えるのであろうか?
実利はウィトゲンシュタインの言語批判の目指すところではない、と言ったところでそれが何になりえよう。
と言っても哲学なんぞは犬も食わない、などというもの言いをしようというのではない。
犬の食う食わないを問題にするようなもの言いこそ犬に食われてなくなってしまえばいいのである。



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